中国の歴史書「魏志倭人伝」(『魏書』東夷伝倭人条)は、3世紀の日本について「倭国乱れ、相攻伐すること歴……」と記しています。
これがいわゆる「倭国大乱」のことで、卑弥呼が登場する前の日本は、小さな国同士が互いに争っていたというのです。
実際、弥生時代の遺跡にはその痕跡がたくさん残っています。
例えば福岡県福岡市の板付遺跡や神奈川県横浜市の大塚遺跡、愛知県清須市の朝日遺跡などのように、集落の周囲に外部から敵が侵入するのを防ぐための逆茂木(茨など棘のある枝を並べて垣にしたもの)や濠などが造られたものがあります。
復元された板付遺跡の環濠集落(Wkipediaより)
また、香川県三豊市の紫雲出山遺跡に現れた高地性集落は、有事の際に避難する「逃げ城」と言われています。
さらに、これらを始めとする弥生時代の遺跡からは、戦争犠牲者と思われる人骨も発掘されています。
■貧富の差と戦争
では、弥生人は縄文人よりも好戦的だったのでしょうか。
狩猟採集生活を基本とする縄文人と、農耕生活を基本とする弥生人。どちらが攻撃的なイメージかと聞かれれば、槍を持って鹿や猪を追いかけていた縄文人のほうが野蛮で、攻撃的、好戦的だっただろうと答える現代人が多いのではないでしょうか。
それにもかかわらず、定説によれば戦争は弥生時代から始まったといいます。
では、なぜ弥生時代が戦争の始まりなのか。その答えは、弥生時代に中国大陸や朝鮮半島から稲作が日本に伝わり、農耕社会が成立したからです。

静岡県の登呂遺跡
稲作の伝来により弥生人は安定した食料の確保が可能になり、定住して生活ができるようになりました。しかし、どこに村(集落)を作るかによって稲の収穫に差が出るのは昔も今も同じです。
つまり貧富の差が生じたわけですが、これによる略奪行為から戦争が始まったというわけです。
ということで、稲作が始まっていない縄文時代には戦争はなかったと考えられてきました。
弥生人が好戦的だったとまでは言えませんが、貧富の差の発生がギスギスした社会を生み出したのであり、それ以前は争いのないユートピアだった(これも言いすぎかも知れませんが)というイメージが、日本人の歴史観の根底にあると言ってもいいでしょう。
しかし、2002(平成14)年、奈良文化財研究所が高知県土佐市の居徳遺跡群で縄文時代晩期(2800年前~2500年前)の人骨15体(少なくとも9人分)を発見し、縄文時代の戦争が現実味を帯びてきたのです。
人骨はいずれも成人男女のもので、その中には骨製の矢じりが貫通し、解体された痕跡のある女性の太ももの骨をはじめ、金属製ののみ状のような刃物で何度も刺された傷がある上腕骨など、明らかに殺傷された痕跡のある骨が3点ありました。
また、縄文時代に戦争はなかったとする説の重要な根拠の1つは、縄文人は武器を持たなかったということですが、近年の研究によってこの根拠も揺らいできています。
どういうことかというと、縄文時代の晩期、関東地方で有茎鏃(有茎式石鏃)が急激に増えているのです。有茎鏃とは、矢の棒の先に差し込む突起のある矢じりのことです。
それまで関東地方では、突起のない無茎鏃(無茎式石鏃)が主に使われていましたが、縄文時代晩期になって有茎鏃がたくさん作られるようになったのです。
無茎鏃の原料は黒曜石であり、地元になかったため、長野から仕入れていました。それに対して有茎鏃の原料は頁岩などであり、地元産です。

黒曜石の矢じり
黒曜石の仕入れをやめて地元産の頁岩などを原料にしたというのは、仕入れを待っていたのでは追いつかないほど大量の矢じりが必要になる状況が発生したということです。
そんな緊急の状況とは、戦争以外に考えられません。
まだ、縄文時代には戦争が頻発していたと断言できるほどの材料はありません。しかし少なくとも、貧富の差が発生した弥生時代以前は、争いのないユートピアのような世界だったという歴史観はかなり揺らいでいると言えるでしょう。
参考資料:
日本歴史楽会『あなたの歴史知識はもう古い! 変わる日本史』宝島社 (2014/8/20)
画像:photoAC,Wikipedia
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